井上英明詩集『ゆっくり五秒』より


  また夢を語り合うことから

三十歳前半の夢は 街中で障害者施設を建てることだっ
た 仕事で訪問する施設の多くは 急勾配で舗装されて
いない細い道で 辿り若くと山の中だった 緑陰 自然
に恵まれた と言えばそう言えるのだが 人を拒絶する
自然の中で とも言える

この門から 出るな と言われても 風が葉を揺らし
光が音と共に誘うのだ 眩しく見上げて その誘いに乗
ってしまうのが人の性なのだ 砂利道を逸れ 細い獣道
や 山莱取りが分け入った道に 間違って入り込んでし
まえば 身の丈を超える雑草や日差しを通さぬ木々の中
に迷い込み 歩き続け 蕨や茸やタラの芽などを 健脚
な者たち が採取した後の 冷たい大地にへたり込むし
かない それは門から出てしまった者への仕打ち

あの頃 私の街にあつた Tというスーパーマーケット
が撤退し 建物はそのまま放置されていた その前を通
るたび ここを買い取り 妻の実家から子牛を譲り受け
て 障害者と暮らす施設ができないものかと同僚と考え
た 三十歳を少し過ぎた 二人の子どもを持つ地方公務
員の私に そんな資力があるはずもなく それでも鎖に
閉ざされ荒れていくそこに夢を馳せた 私の夢は夢で終
わったけれど 二十一世紀 社会は形を変えて だが

誰もが住み慣れた場所で暮らしていけるように 一九八
一年国際障害者年のスローガン 完全参加と平等 は達
成途上にあるが 順風に今もはためいていると思ってい
たのに 蒸し暑い七月二十六日未明 住宅街に建てられ
た旗竿に纏わりついていた

一度開かれようとした門は なんとなく閉ざされてしま
わないか 悲しみは憎悪に変わり 私の心は無力さの中 
で やいばを と願つてしまわないか 妻の実家にはもう牛
もいなくなったが 拒絶する緑陰を思いながら また夢
を語り合うところから始めなければならない



  ゆっくり五秒

ゆっくり五秒 食前の祈りに要した時間 虐待のニュー
スに憤っていた時間 介護施設に人所している義母に思
いを馳せた時間 腎臓を病んでいる姉のために祈った時
間 耳が遠くなった母にそっけなくしたことを悔いた時
間 亡くなって十年が過ぎた父の顔を思い出していた時
間 共稼ぎの二男の家族を案じた時間 思いやったとい
うには短すぎて

今日 あゆむがリハビリで ゆっくり五秒 立てたんです
弾むような声で 長男の嫁から報告があったのは 五月
十一日月曜日夕方六時過ぎだった 腰に添えた手をそっ
と離す 体を揺らしながらその位置でとどまる

い―ち に― い さ―ん しーい ごーお

ろ―く と続ける前に 体勢を崩したので 慌てて再び
手を添えたのだろう 待った四年三か月に等しい ゆっ
くり五秒 があった

健康な者たちの脈拍や呼吸にも似た秒針の動き ではな
く 日差しの動き でもなく もっと静かな もっと穏
やかな ゆっくり五秒 ゆっくり とは長男の家族だけ
が共有する時間の単位 絶望とか 希望とか そんな安
易な単位ではなく この家族にだけしかない ゆっくり
という 秒針

車から玄関までの雨に打たれた時間 膝の痛みを忘れる
までの時間 居間の二重のサッシを開けて空を見上げる
までの時間 置き忘れた杖の位置をたどる時間 悲しみ
を悲しみのあった場所に置き去るまでの時間

呼吸を整えて 支えている孫の腰から手を放す 孫も呼
吸を合わせて テーブルに置いた手を少し持ち上げる
当たり前の ありきたりの記念日のような 成長の過程
を その都度 長男の家族は立ち止まりながら喜ぶ 喜
ぶことを知っていると思った ゆっくり五秒

井上英明詩集『ゆっくり五秒』
(二〇二〇年五月 土曜美術社出版販売刊)


著者略歴
井上英明(いのうえ ひであき)

1948年 群馬県太田市に生まれる
1976年 詩集『鳥山挽歌』(太田詩人クラブ)刊
1983年 詩集『受胎告知』(書肆いいだや)刊
1989年 詩集『サンタクロースがやつて来る」東国叢書① (紙鳶社)刊
2008年 詩集『一粒の麦は、―戦没者迫悼詩集』(風書房)刊
2016年 詩集『日常から』えぼ叢書① (明文書房)刊
2018年 詩集『その人に―ウバルド・霜鳥俊一さんの逝去を悼んで―』(クロールの会)刊
2019年 詩画集『巡礼』(書肆山住)刊

所属団体 群馬詩人クラブ、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、日本キリスト教詩人会会員
     詩誌「東国」「エッセンス」「日本未来派」「野ばら」(いずれも加入順)

群馬県太田市在住


井上英明さんの最新詩集『ゆっくり五秒』から、「また夢を語り合うことから」と表題作「ゆっくり五秒」のご紹介です。(sage)